思考圏外ノート

趣味として考えたことの記録

非体系哲学はどう読んだらいいのか

今、カントの判断力批判を読んでいるところだ。上巻を読み終えて、下巻に入った。内容については、分かったような分からないような感じだ。

カントの哲学は体系哲学。ニーチェの哲学は非体系哲学。私はニーチェをまだ読んだことがなく、ユーチューブなどで、ざっくりとその概要は知っているという状態だが、ふと、タイトルのような疑問が浮かんできた。つまり「非体系哲学はどう読んだらよいのだろうか」

私がこのような疑問を持ったのは、体系哲学というのは、体系であるが故に、読めば読むほど、パズルのように穴が埋まってゆき、理解が深まってゆく感があるが、非体系哲学にはそのようなものがないだろうと思ったためである。ニーチェを幾ら読んでも、ニーチェが言わんとすることなど見えてはこないのだろう。それがまさに非体系哲学の狙いそのものでもあるからだ。しかし、だとすると、そのようなものを読む意味というのはあるのだろうか。

これについて、ChatGPTに聞いてみた。すると、以下のような感じの回答。

「非体系哲学というのは、その考えに当たることで、何らかの影響を受けることを目論むもの。体系哲学のように、何かが分かるというようなことは目指してはいない」

この回答には納得できた。確かに、人の考え方に触れると言うのは、唯それだけで、何らかの影響は受けるものである。それが哲学的な思考であれば、なおのこと、大きな変化が自分に起きる可能性がある。それに期待して、ニーチェを読むと言うことは、全然、ありかもしれないと思った。

しかし、それと同時に、そもそも私がカントを読む際に、既にニーチェ的な読み方もしていると言う事にも気付いた。つまり、私は体系哲学を非体系哲学のようにも扱っているということだ。私が、実際、カントを読んでいて面白いと思う所は、カントの構築する体系というよりかは、寧ろ、カントが結論まで思考を進めてゆくその途中にある、ふとした、おそらく客観的には些細だと思われるような、思考の断片だった。そのような何気ない切れ端の思考が、私の中の、今まで意識もしていなかったが、しかし、確かに私の中にあった些細な思考とぶつかって、そこから面白さが生まれてくるのだった。これは、確かに、自分の中にある、凝り固まったものの見方を、揺り動かすきっかけになっていると言えるだろう。

非体系哲学が、内容そのものに意味があるのではなく、人の考え方に揺さぶりをかけるためにあるということは、別の言い方をすれば、思考というのは、つまりは気持ちなのだということである。例えば、「人生には意味などない」と誰かが言えば、これは虚無的な感情の表現かもしれない。だから、そのような哲学的なことを誰かに言われて、それに影響を受けることがもしあったとしたら、それは、その人の言ったことというよりかは、その人の気持ちに影響されたということになってくる。これは、考えるということと感じるということは、別ではないということである。

今の時代が、ニーチェが考えたことの中にあるとすれば、今の哲学とは、哲学を通してしか表現できないような気持ちの交流にあるのかもしれない。

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