何かを疑うということは、その何か以外の何かを信じることであると思う。つまり、例えば、「神はいる」と言われた場合に、それを疑ったとすれば、それは、「神はいる」以外の何かを信じていることである。
だから、まず、疑うということは、信じることの反対であるとは思えない。人は、自分の身の回りで言われていることが、殆ど何も信じられないような時、自分は何も信じられないのだと思いがちであるが、しかし、実際、何も信じていないなどということはないと思う。
私は、人が何も信じていないということは、却って、あり得ないと思う。ただ、信じる対象が、具体的であるか、そうでないかの違いである。
ここに、疑うことと信じることの違いがあるように思う。つまり、何かを信じる時、人は、その何かを実際に思い浮かべることができるが、疑う時は、自分で、その信じている対象が、はっきりイメージできないという状態になる。これは言いたいことがあるのに、どうしても、それが上手く言えないという状態である。だから、疑うことは陰鬱で苦しく、信じることは逆に清々しい。
私は、疑うということが重要であるとは思わないが、疑うということが何も信じていないということであると考えることには、ノーと言いたい。別に、疑ってばかりいたって、それは、人間として冷めているということとは限らない。単に、信じているものについて、はっきりと語れるか、そうでないかという違いである。
しかし、この違いによって、結局は、信じることは明るくて、それをちゃんと伝えることができ、ストレスも少なくて済み、疑うことは陰鬱で暗く、何を言いたいのかが分からず、孤独で苦しいということになる。そして、それは実際、それぞれの性質として、経験的には正しいので、疑うよりは信じることの方が、何か良いことのように思われてくる。
しかし、私には、信じるということと疑うということは、結局は、ストレス負荷が小さいか大きいかという違いしかないように思う。信じている=明るい、疑う=陰鬱という式は、思い込みの式であり、それは、信じることと疑うこととが、別のものであると考えていれば、段々、そうなってくるというものであり、別に、疑っているばかりで、苦しかったとしても、それで陰鬱にならなくてはいけないという訳でもないのである。自分は、単に、はっきりとは言えない何かを信じているだけであると、ある種、疑うということを、積極的な意味で捉えることも、またできる訳である。
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