今、カントの「判断力批判」という本を読んでいる。ここには、カントの芸術観が、哲学的に述べられている。
この本の要旨については、細かく説明すると大変なので、それはやらない。しかし、この本に影響を受けて、自分なりに、色々考えたことがあったので、それを書こうと思う。内容は、文学を経験するということについてである。
<私が文学を読む理由>
そこで、まず、先に言っておきたいのは、私は文学が好きというである。唯、この、好きという感覚は、普通の好きとは、違っている。野球が好きとか、あの人が好きとか、そういう好きではない。そのような好きには、そのものや相手への関心が伴っている。しかし、私の文学に対する好きは、そのようなものではない。関心どころか、どっちかと言えば、無関心であり、寧ろ、感情が抑え込まれて、苦しいというような、好きなのである。
このような好きを、普通は、好きとは言わないだろう。実際、私自身も、文学を好きと言うのには、かなり抵抗がある。しかし、それなのに、文学が好きと言うのは、そのように言わなければ、文学を読んでいる理由が、結局、説明できないからなのである。だから、私はとりあえず、文学が好きと言うのである。ただ、それはシンプルな意味ではない。
しかし、それでは、何故、文学を読んでいるのか。苦しいと言うのなら、止めればいいではないか。そのようなことが、やっぱり、次の疑問として湧いてくる。
そこで、私は、それに対する説明を試みる訳である。
しかし、その試みはいつも、空しく終わってしまう。苦しいのに、それをし続ける理由というのは、結局、理屈では説明できないとしか言いようがないのである。
そこで、今度は、理屈ではなく、経験で語るということになってくる。そうして、私は、それを、文学を読む理由とする訳なのである。つまり、例えば、夏目漱石の○○を読んで、引き込まれたとか、そんな、言葉にしてしまえば、しごく単純なことを引き合いとして、文学が大事であると言いたい訳なのである。
<文学を経験するということ>
しかし、文学を経験するという言葉は、それ自体、不思議な言葉である。文学というのは、言ってしまえば、紙に書かれた、単なる文字の並びである。それを読む人は、机に座って、じっとそれを、目で追いかけるだけである。体は殆ど、動いていないのである。
しかし、経験という言葉には、ニュアンスとして、体の要素は必要不可欠である。仕事の経験とか、良い経験ができたとか、私たちは、そんな風に、経験という言葉を使うが、それは、しっかり体で何かを覚えたというニュアンスなのである。
このような不思議さが、文学というものにはある。ただ、座って、文字を追いかけるだけで、その人が、体のレベルで、何かを理解してしまうのである。理屈から言えば、そんなことは、本来、あり得ないことである。
しかし、そのようなことは、実際にあるのである。私は、現に、そのような経験をしてきた。ドストエフスキーとか、小林秀雄とか、挙げれば、きりがないが、私は、それらの本を読むことで、殆ど逃れがたいほどの、強い影響を受けた。
このような経験は、まさに、経験としか言いようがない経験であり、逃れようと思っても、逃れられない経験である。逃れられるのであれば、それは、娯楽レベルの面白さに留まっているはずである。
だから、私は、文学とは、結局、経験するものだと言いたいのである。
<文学の面白さとは>
だから、本を読んで、前述のような経験をしたことがなければ、文学は分かりようがないのである。そのような人は、文学など、意味がないから、必要ないとしか思えないだろう。そして、それは、実際、間違っていない。文学に意味があるとは、言えないのである。意味というのは、頭から出てくることだが、文学というのは、頭だけではなく、体で分かるものでもあるからである。
だから、文学の面白さが分からないと、悩む人がいたら、そのような人は、まずは、文学を読んで、前述のような経験をしなければいけないのである。そのような経験ができれば、文学というものを認められるようになるはずである。
そして、このようなタイプの人は、いずれ、文学を経験することができるだろう。何故なら、そもそも、文学の面白さが分からないと悩んでいる時点で、それが、文学に関心はあるという証拠だからである。ただ、一冊二冊で、分からないからつまらないと、諦めてしまえば、もう、その、ある種の、関心に関わる才能は、開花せずに、終わってしまうだろう。
<文学の難しさ>
思うに、文学というのは、この点が、他に比べて、難しいのである。
例えば、IQの高い天才小学生が、既に、大学レベルの数学まで、理解できるということはあり得る。しかし、そのような小学生でも、夏目漱石の「坊ちゃん」が理解できるかというと、難しいのではないかと思う。
勿論、小学生の経験レベルの範囲内で、理解できると言えば、理解はできるのだが、前述のような、文学を経験するという、深い意味での経験には、中々、到達しないのではないかと思う。
しかし、一度、社会人を経験した人であれば、例え、IQが低かろうと何だろうと、否応なしにという感じで、よく分かることがあるだろう。これが、文学を経験するということである。よく、昔は分からなかったが、今、改めて読んでみたら面白かった、というような感想があるが、これは、今になって初めて、文学を経験することができたということではないかと思う。
このように、文学というのは、頭だけで分かるというようなものではなく、体で経験しないといけないものでもある。だから、幾ら分かろうと思っても、その時に、分からないということも、大いにあり得るのである。
だから、一冊読んで、分からないなんていうのは、当たり前のことである。ましてや、海外の文学など、国も違っていれば、時代も違っている。本来、理屈上は、分かるはずもないのである。日本の文学でさえ、人によって、人生経験は異なるのだから、自分と経験が余り離れていると、もう分からない。
しかし、それにも関わらず、読んでいるうちに、文学を経験するということはあるのである。この、本来はあり得ないはずの現象をもって、文学はすごいと言う訳なのである。また、すごいとしか、結局、言いようもない次第なのである。
だから、文学というのは、幾ら頭が良くても、ピンとこなければ、こないものである。そして、それを、自分の頭が悪いせいだと考えるのは、文学に対する誤解である。寧ろ、数学などよりも、頭はそんなに要らないのである。数学が全然できないとなれば、確かに、頭が悪いという話にも、つなげられるかもしれないが、文学では、頭と経験がそれなりにあって、タイミングさえ合えば、文学経験というのは結構、成り立つのである。実際「坊ちゃん」とかも、文章そのものが、超難しいなんてこともない。読もうと思えば、読める。
唯、話の流れで、数学と文学を対立させてしまったが、私は別に、数学と文学は違うと言うつもりはない。私は、文学というのは、数学に比べると、そのような傾向が強いと言いたいだけである。あるいは、浅いレベルで見れば、文学と数学は違うように見えるということである。
<最後に>
だから、文学を読む際には、何かを経験するという気持ちで、読んでみるのが、良いのではないかと思う。そして、その経験ができたら、それをまたきっかけに、自分の文学地図を広げてゆくのが、良いと思う。
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