思考圏外ノート

趣味として考えたことの記録

投稿者: shikou123

  • 文学経験とは何なのか


    今、カントの「判断力批判」という本を読んでいる。ここには、カントの芸術観が、哲学的に述べられている。

    この本の要旨については、細かく説明すると大変なので、それはやらない。しかし、この本に影響を受けて、自分なりに、色々考えたことがあったので、それを書こうと思う。内容は、文学を経験するということについてである。

    <私が文学を読む理由>


    そこで、まず、先に言っておきたいのは、私は文学が好きというである。唯、この、好きという感覚は、普通の好きとは、違っている。野球が好きとか、あの人が好きとか、そういう好きではない。そのような好きには、そのものや相手への関心が伴っている。しかし、私の文学に対する好きは、そのようなものではない。関心どころか、どっちかと言えば、無関心であり、寧ろ、感情が抑え込まれて、苦しいというような、好きなのである。

    このような好きを、普通は、好きとは言わないだろう。実際、私自身も、文学を好きと言うのには、かなり抵抗がある。しかし、それなのに、文学が好きと言うのは、そのように言わなければ、文学を読んでいる理由が、結局、説明できないからなのである。だから、私はとりあえず、文学が好きと言うのである。ただ、それはシンプルな意味ではない。

    しかし、それでは、何故、文学を読んでいるのか。苦しいと言うのなら、止めればいいではないか。そのようなことが、やっぱり、次の疑問として湧いてくる。

    そこで、私は、それに対する説明を試みる訳である。

    しかし、その試みはいつも、空しく終わってしまう。苦しいのに、それをし続ける理由というのは、結局、理屈では説明できないとしか言いようがないのである。

    そこで、今度は、理屈ではなく、経験で語るということになってくる。そうして、私は、それを、文学を読む理由とする訳なのである。つまり、例えば、夏目漱石の○○を読んで、引き込まれたとか、そんな、言葉にしてしまえば、しごく単純なことを引き合いとして、文学が大事であると言いたい訳なのである。

    <文学を経験するということ>


    しかし、文学を経験するという言葉は、それ自体、不思議な言葉である。文学というのは、言ってしまえば、紙に書かれた、単なる文字の並びである。それを読む人は、机に座って、じっとそれを、目で追いかけるだけである。体は殆ど、動いていないのである。

    しかし、経験という言葉には、ニュアンスとして、体の要素は必要不可欠である。仕事の経験とか、良い経験ができたとか、私たちは、そんな風に、経験という言葉を使うが、それは、しっかり体で何かを覚えたというニュアンスなのである。

    このような不思議さが、文学というものにはある。ただ、座って、文字を追いかけるだけで、その人が、体のレベルで、何かを理解してしまうのである。理屈から言えば、そんなことは、本来、あり得ないことである。

    しかし、そのようなことは、実際にあるのである。私は、現に、そのような経験をしてきた。ドストエフスキーとか、小林秀雄とか、挙げれば、きりがないが、私は、それらの本を読むことで、殆ど逃れがたいほどの、強い影響を受けた。

    このような経験は、まさに、経験としか言いようがない経験であり、逃れようと思っても、逃れられない経験である。逃れられるのであれば、それは、娯楽レベルの面白さに留まっているはずである。

    だから、私は、文学とは、結局、経験するものだと言いたいのである。

    <文学の面白さとは>


    だから、本を読んで、前述のような経験をしたことがなければ、文学は分かりようがないのである。そのような人は、文学など、意味がないから、必要ないとしか思えないだろう。そして、それは、実際、間違っていない。文学に意味があるとは、言えないのである。意味というのは、頭から出てくることだが、文学というのは、頭だけではなく、体で分かるものでもあるからである。

    だから、文学の面白さが分からないと、悩む人がいたら、そのような人は、まずは、文学を読んで、前述のような経験をしなければいけないのである。そのような経験ができれば、文学というものを認められるようになるはずである。

    そして、このようなタイプの人は、いずれ、文学を経験することができるだろう。何故なら、そもそも、文学の面白さが分からないと悩んでいる時点で、それが、文学に関心はあるという証拠だからである。ただ、一冊二冊で、分からないからつまらないと、諦めてしまえば、もう、その、ある種の、関心に関わる才能は、開花せずに、終わってしまうだろう。

    <文学の難しさ>


    思うに、文学というのは、この点が、他に比べて、難しいのである。

    例えば、IQの高い天才小学生が、既に、大学レベルの数学まで、理解できるということはあり得る。しかし、そのような小学生でも、夏目漱石の「坊ちゃん」が理解できるかというと、難しいのではないかと思う。

    勿論、小学生の経験レベルの範囲内で、理解できると言えば、理解はできるのだが、前述のような、文学を経験するという、深い意味での経験には、中々、到達しないのではないかと思う。

    しかし、一度、社会人を経験した人であれば、例え、IQが低かろうと何だろうと、否応なしにという感じで、よく分かることがあるだろう。これが、文学を経験するということである。よく、昔は分からなかったが、今、改めて読んでみたら面白かった、というような感想があるが、これは、今になって初めて、文学を経験することができたということではないかと思う。

    このように、文学というのは、頭だけで分かるというようなものではなく、体で経験しないといけないものでもある。だから、幾ら分かろうと思っても、その時に、分からないということも、大いにあり得るのである。

    だから、一冊読んで、分からないなんていうのは、当たり前のことである。ましてや、海外の文学など、国も違っていれば、時代も違っている。本来、理屈上は、分かるはずもないのである。日本の文学でさえ、人によって、人生経験は異なるのだから、自分と経験が余り離れていると、もう分からない。

    しかし、それにも関わらず、読んでいるうちに、文学を経験するということはあるのである。この、本来はあり得ないはずの現象をもって、文学はすごいと言う訳なのである。また、すごいとしか、結局、言いようもない次第なのである。

    だから、文学というのは、幾ら頭が良くても、ピンとこなければ、こないものである。そして、それを、自分の頭が悪いせいだと考えるのは、文学に対する誤解である。寧ろ、数学などよりも、頭はそんなに要らないのである。数学が全然できないとなれば、確かに、頭が悪いという話にも、つなげられるかもしれないが、文学では、頭と経験がそれなりにあって、タイミングさえ合えば、文学経験というのは結構、成り立つのである。実際「坊ちゃん」とかも、文章そのものが、超難しいなんてこともない。読もうと思えば、読める。

    唯、話の流れで、数学と文学を対立させてしまったが、私は別に、数学と文学は違うと言うつもりはない。私は、文学というのは、数学に比べると、そのような傾向が強いと言いたいだけである。あるいは、浅いレベルで見れば、文学と数学は違うように見えるということである。

    <最後に>


    だから、文学を読む際には、何かを経験するという気持ちで、読んでみるのが、良いのではないかと思う。そして、その経験ができたら、それをまたきっかけに、自分の文学地図を広げてゆくのが、良いと思う。

  • 坂本慎太郎のアルバム「ヤッホー」への感想

    坂本慎太郎の五枚目アルバム「ヤッホー」が出た。YOUTUBEにアップされていた。私は、彼の昔のアルバムも聞いてはいるが、そんなに何度も聞いたりということはなかった。しかし、今回のアルバムは、今までよりも、自分の琴線に触れる感じがあって、二度三度と聞いている。

    <インタビュー記事を読んで>


    彼が、アルバム制作に関して、インタビューに答える記事を読んだ感じでは、彼の今回のアルバムに関して、私と同じように感じた人たちがいるらしいと分かった。現に、インタビュアーも、今回のアルバムは、今までのとは違って、坂本慎太郎の個人的な考えやストレートな感情が感じられる気がする、というようなことを言っていた。

    しかし、坂本慎太郎自身は、それを半ば肯定し、半ば否定するといった様子だった。少なくとも、歌詞の作り方など、制作方法の面では、今までと違うところがあったようだが、彼自身の内面的な変化というのは、それは、人間も生きてゆくうちに変わるという意味では、勿論変わってるかもしれないが、しかし、本人曰く、積極的に何かを変えたという意識はないようだ。

    そういうことを踏まえて、もう一度、「ヤッホー」というアルバムについて考えてみる。

    <「ヤッホー」の歌詞の面>


    私は、基本的に、歌のある音楽は、歌詞が自分の趣味でないと聞かない。メロディの良い歌は、確かに、聞いていて楽しいが、歌詞が頭と心にヒットしないと、自分の中で継続して、自分と一緒に生きてくれるものにならないのだ。そのような歌は、幾ら聞いても、結局は、自己啓発本のように空虚で、継続して聞く気にはならない。

    なので、私は、坂本慎太郎の曲も、まずは歌詞から入っている。そして、ゆらゆら帝国の時よりも、ソロになってからの歌詞の方が好きだ。ゆらゆら帝国の時の歌詞は抽象的で、あまりストレートではないが、ソロになってからは、はっきりしたものになったという感じがする。だが、これは別に、ゆらゆら帝国の時の歌詞がつまらないということではない。単に、趣味ではないというだけで、ゆらゆら帝国の時の歌詞も、これはこれで、結構な詞であるという印象を持っている。

    しかし、それはそれとして、今までのソロアルバムの中でも、今回の「ヤッホー」というアルバムは、これまで以上に、歌詞が良いなと感じるのである。

    これは何でなのだろう、と私は考えてしまう。そして、そのもの思いは、結局、やはり、坂本慎太郎自身の心境の変化へと帰結してゆくのである。つまり、それは諦念の感覚であり、しかも、それは、挫折のような、単なる大きな諦念という訳ではなく、子供が大人になるのを受け入れたというような、革命的で、一度きりの、悲しい諦念である。ここに、フォークソングとか演歌とかの精神性が、ふと顔を覗かせるという感じがある。

    そして、この諦念は、おそらく日本的なものと無縁ではない。実際、坂本慎太郎自身も、この諦念を単なる個人的なものと捉えていないように感じる。何故なら、彼は、前述のインタビューで、「自分も変わったかもしれないが、聞いてる側も変わったと思う」と答えている。ここには、彼自身、自分の心境の変化を認めつつ、しかし、それを、単なる、自分の人生だけに突発的に訪れたものとしてではなく、普遍的な、今の時代にタイムリーな不可避的なものとして、語っている節がある。

    私には、彼が、日本的なものと、ふと和解して、それがふと音楽になって、それがふとアルバムになったというような物言いをしているように見える。そして、その言い方に納得できるのは、私も、この頃になって、そのような心境の変化を感じることが多いからだ。その点、確かに、聞いている側も変わっているのだ。

    だから、私は、彼が言うように、この心境の変化は、今、日本に広がりつつある普遍的な心境の変化なのかもしれないとも思う。そして、彼のこの「ヤッホー」というアルバムは、その点で、私に深くヒットするものがある。

    しかし、実際、日本的なものなどと言いはしたものの、このアルバムに、そんな歌詞が出てくる訳ではない。この解釈はあくまで私の推測であり、単に私自身の気持ちを彼に投影したに過ぎないと、そう言ってしまえば、唯それだけのことである。しかし、そうは思いつつも、このアルバムには、それを感じさせるものがあるような気がしてならない。だからこそ、このアルバムは凄いのではないかと思う訳である。


    <坂本慎太郎の歌詞について>


    また、私が思うに、坂本慎太郎のような人は、歌詞で、自分のしていることをさりげなく伝えるということをやっている。つまり、自己言及である。例えば、以前のアルバムで、「ディスコって」という曲があり、この曲には、「ディスコは君を侮辱しない」とか「ディスコは君に何も求めない」とか、そのような詞がある。このような詞は、彼自身の歌詞のスタンスの説明でもあるように思う。

    実際、彼の詞は、聞いている人に何の強要もしていない。勿論、一つの世界観は提示しているが、聞く人がどう受け取るかは、全く指定しない。その感じは、一枚の絵を見る時の訳の分からなさと同じであり、映画で言えば、小津安二郎みたいである。

    だから、この「ヤッホー」というアルバムでも、所々に、社会への怒りや、前述の、自分自身の心境の変化や、諦念、悲しみがちりばめられているが、それが、実際に、社会への批判や誰かへのメッセージとしてあるのかというと、そういう風には受け取れない。彼は、唯、今の社会状況も、自分の内面も、全て、流れてゆくものの一瞬間として、捕まえたかったから、捕まえただけという風に見える。実際、このアルバムには「時間は動いている、オッケー」という歌詞も登場する。そういうところが、やっぱり日本的であり、演歌やフォークの精神と重なってくる。

    <「ヤッホー」の音楽の面>


    そして、彼の自己言及的なところは、彼の音楽と歌詞とを、しっかりとつなげる役割も果たしているとも思う。

    今回のアルバムは、音楽の面でも、結構聞きやすい。私は、前述のとおり、歌詞の方が気になるタイプなので、音楽の方は余り自信がない。しかし、そんな私でも、今回のアルバムは、音楽的にはシンプルで、心地よく、そういう意味では、万人受けしそうな感じですらあると思う。

    そして、このことについても、「時計が動き出した」での「余計なことしなくて、オッケー」という歌詞によって、説明がされているように感じる。この歌詞から、聞いている人は、彼はもう、余計なことはしなくてもいいという安らぎを得ているんだと感じる。また、彼はもう、このようにシンプルな音楽でも満足であり、また、ここまでシンプルにしても尚、聞きごたえのあるものが作れるという、静かな自信の境地も持っているのだと分かるのである。

    そして、それはまた、別の角度から見ると、諦めの境地であり、悲哀の境地でもある。その悲哀が、今度は「時の向こうで」という別の歌で歌われ、その苦しみが「なぜわざわざ」になり、これが、社会への観察眼と結びつけば「おじいさんへ」や「麻痺」になったのではないかと思う。

    <終わりに>


    よくよく何度も歌詞を聞いてみれば、彼の詞を貫くものは、昔から変わっていない。このような諦め、苦しみ、社会への疑問などなどは、ソロになってからは、殆ど、何度も同じように繰り返されている。彼が「自分ではそれ程、変わったつもりがない」というのも、やはり本当なのだろう。そして、これからもまた、同じようなことが繰り返されつつ、しかし、それでいて、何か発展や変化があると感じられるものが、できあがるのかもしれない。

    しかし、唯、私には、今回のアルバムは、もしかしたら、結構、特別なものかもしれないと思える。このアルバムのように、悲哀や諦念や苦渋が、歌詞と音楽で、しかも、余り奇に走らないシンプルなスタイルで、見事に一つのまとまりを見せてくれるものは、中々ないと思う。つまり、これは一個人の境地が垣間見える一瞬の、花火のように特別な芸術であり、そして、それ故に、私には、今回のアルバムは、偶然の要素がだいぶ良い形で加わったように感じる。だから、もうこのようなアルバムはできないだろうと思う一方で、このアルバムには今までよりも、一段と深い魅力を覚えるのである。

  • 「頭がいい」という言葉に感じる違和感について

    最近、自己啓発的な動画や文章で
    「○○している人は頭がいい」
    「△△しない人は頭が悪い」
    といった言い回しをよく目にする。

    それを見ていて、私は次のような疑問を持つようになった。
    これは新しい形をした根性論なのではないか、と。

    かつての根性論は、「気合」「我慢」「努力」といった言葉を正面から使っていた。
    しかし、暴力や強制と結びついていたこともあり、次第に公然とは語りにくくなった。
    その結果、根性そのものが否定された、というよりも、別の言葉に言い換えられたのではないだろうか。

    その一つが「頭がいい」という言葉だと思う。

    「頭がいい」という言葉は非常に便利だ。
    だが同時に、あまりに雑でもある。
    生活習慣、感情の扱い方、仕事の進め方、価値観――
    本来は文脈ごとに分けて考えるべき事柄を、一語でまとめて評価してしまう。

    そして厄介なのは、その評価が説明ではなく、規範として使われる点だ。
    「こうすると合理的だ」という話が、
    いつの間にか「こうできる人は頭がいい」に変わる。
    これは論理のように見えて、実際には道徳の押し付けに近い。

    私は、そもそも根性というものが、論理の枠にきれいに当てはまるものだとは思っていない。
    根性とは、状況や感情に強く依存するもので、測定も一般化も難しい。
    それを「論理的に説明できるもの」として扱おうとするところに、無理が生じる。

    今の「頭がいい」論も同じ構造を持っているように見える。
    根性という言葉は使わないが、
    結局は「自分を律せ」「感情を抑えろ」「無駄をするな」という要求に行き着く。
    ただ、それを合理性や知性の言葉で包んでいるだけだ。

    もっとも、根性論そのものを全面的に否定したいわけではない。
    若者が社会に適応していく過程で、
    一定の規律や自己管理を内面化する装置として、
    根性論が機能してきた面は確かにある。

    ただ問題は、
    根性を論理で扱おうとしたときに生まれる精神的な摩擦だ。
    道徳は身につくかもしれないが、
    同時に混乱や苦痛も生まれる。
    それを個人の弱さとして処理してしまうと、話は先に進まない。

    むしろ必要なのは、
    「なぜ自分はその規範を引き受けているのか」
    「それは本当に自分にとって妥当なのか」
    と問い返す、もう一段上の視点ではないだろうか。

    「頭がいい」という言葉に違和感を覚える感覚は、
    単なる反発ではなく、
    そうした段階に差し掛かっているサインなのかもしれない。

    ※Chat GPTに記事を書いてと言ったら、良い感じになったので、そのまま載せてます。ただ、記事を書いて貰ったと言っても、これは、概ね、私の考えたことです。

  • 映画紹介①

    今まで、私が面白いと思った映画を、とりあえず十個、挙げたい。これは、ランキングではない。ランキングにしても、どうせ時間が経つと、やっぱりあっちのほうがあっちより上な気がするなどと、後で悔やむことになるからである。

    <面白かった映画、とりあえず十個>

    • ショーシャンクの空に

      無実の罪で捕まった男がもがく話。高校の時に友達に勧められて、見た。今ではもう有名かもしれないが、当時はまだマイナー作品って感じだった。これが、映画を自分でも見てみるというきっかけになった気がする。色んな映画を見て来た今となっては、この作品は物足りないのだが、しかし、映画へ関心を持つきっかけとして、想い出の作品である。

    • ボーン・アイデンティティ(ボーンシリーズ三部作)

      マットデイモンが組織と戦う話。面白い。格好いい。この手の、個人VS組織のアクションエンタメは沢山あるが、大抵、面白くても、記憶には残らないことが多い。しかし、この作品だけは、今でも記憶に残っている。撮り方が良いのか、演出が良いのか、何なのか分からないにしても、とにかく面白い奴。

    • メカニック(リメイクじゃない奴)

      殺し屋が、殺し屋志望の若い男を弟子にとって、色々ある話。渋い。名作。もっぱら男の映画。

    • パピヨン(リメイクじゃない奴)

      男が脱獄しようとする話。魂。熱い。名作。

    • グラディエーター

      面白い。よくできている。しかし、余りによくできていて、却って、物足りなさを感じた不思議な作品。エンターテイメントの王道を、人間的なリアリティを維持したまま、うまいこと、まとめあげたという感じ。だから、面白くないなどということは無いのだが、しかし、その分、独特さ、個性、ある種の不器用さ、抵抗が無いように感じる。余りにそつがない。

    • ガタカ

      合理化が進んだ近未来的な社会で、非合理な男が宇宙を目指す話。熱い話。未来を演出するための工夫が凝っていて、その趣向が面白い。

    • スタンドバイミー

      有名な奴。五人の子供が、死体を見つける旅に出る。

    • パリ、テキサス

      どういうストーリーなのかも、はっきりしない感じの映画なのだが、何かしら解釈するとすれば、自分自身に悩む男が放浪する話。芸術的な映画。映像とライクーダーの音楽が合わさって、詩を感じる。悲哀のある暖かさに満ちており、陰鬱なものが裏に流れているが、心地よい。この映画は、私の中では別格の感がある。

    • 脳内ニューヨーク

      チャーリーカウフマンに注目していた時に見た奴。どういう話か説明するのが難しい。一回見ただけだと、何だか分からなかった記憶がある。考え出すと、頭がおかしくなってきそうになる、メタな話だ。しかし、この映画は、結構、インパクトがあった。私の中では、他とはレベチの映画。チャーリーカウフマンはすごい。

    • トゥルーマンショー

      ジムキャリーが、自分の生活が、ドラマとして放送されてるんじゃないかと疑い出し、ほんとにそうだったという話。ギャグ映画だが、深く突っ込めば哲学映画である。これもメタの作品で、結局のところ、今の時代、本当に面白いと思えるのは、メタだけである。この映画は、文句なしに名作。

  • 意味の意味

    人生に意味はないと、よく耳にする。反対に、意味はあるとも、よく聞く。愛とは希望とはどういう意味か、などの問いも沢山ある。しかし、私は時々、そもそも、意味ってどういう意味なのだろうと思ってしまう。

    この疑問に対して、言葉で答えるのは不可能だ。意味はどういう意味なのかと聞いた時点で、既に、意味という言葉を、何らかの意味で使っているからだ。意味の意味を、辞書で調べることはできても、そこに書いてあることに満足することは、決してできないだろう。

    だから、意味の意味については、言葉で説明することはできない。

    しかし、これを、感覚的に捉えることはできるような気はする。つまり、意味という言葉を使った時に、どんな感覚で、それを使っているかを、意識することはできる気がする。

    私は、「意味がない」と「意味がある」は、どこかでつながってくるものだと思う。例えば、人生に意味がないと思う時でも、その瞬間、人生に意味がないと思うことには意味があると思っていることに気付く。すると、結局は、人生には意味があるということになってしまう。

    このように、「意味がない」と「意味がある」は、どこかの点で、自然にひっくり返ってしまう。

    しかし、これは、「意味がない」と「意味がある」が同じということではなく、「意味がない」と思う時の意味と、「意味がある」と思う時の意味とが、別の意味、別の感覚で使われているということだと思う。

    「人生には意味がない」と思う時、大体、「どうせいつか死ぬのだから、何をしても無意味」などの理由がある。しかし、「人生に意味はある」と思う時、そう思う理由は「生きていれば良いこともあるに違いない」という感じなるように思う。

    ここでどういう違いがあるかと考えると、前者の理由は、何らかの根拠の説明であると思えるが、後者の理由は、根拠というよりは、何らかの希望の表明であるように思える。つまり、前者は、感情を排して、論理のみで考えた結果であり、後者は、論理を排して、感情を押し出した結果であるように思える。

    そのため「人生に意味がない」という時の意味は、論理的な、頭だけで考えるような意味で、「人生に意味がある」という時の意味は、感情的で、心で思うような意味ではないかと思える。

    すると、結局のところ、意味にもやはり、何らかの意味があり、それは言葉にはできないものの、感覚的には、頭だけで考えたような意味と、心で思ったような意味があるように思える。

    すると「人生に意味はない」と言っているのと、「人生に意味はある」と言っているのとは、言葉上では、あるなしで対立しているように見えるが、実際には、別のことを言っているように思えてくる。頭だけで考えれば、人生には意味はないが、心で思えば、人生には意味がある。ただ、それだけであり、どちらも正しいというだけのことになる。

    最近は、「生きてる意味がない」とか「働く意味が分からない」とか「人付きあいをしたってしょうがない」とか、そういう風になりがちだと思うが、それは、頭だけで、ものを考えると言うことが、昔より増えているからだと思う。心で何かを自由に思うということが難しくなっているのだ。それだけ、しがらみが多く、身動きの取れない不自由な世の中なのだと思う。

    私は、今できることと言ったら、それは、頭だけでものを考えるしかなくなっている現状を自覚することによって、心の自由を、絶えず、防衛し続けるしかないように思う。結局のところ、絶望しながら、平然と生きるより他ない。今の所、それ以外には考えられない。

  • 疑うことと信じることの違い

    何かを疑うということは、その何か以外の何かを信じることであると思う。つまり、例えば、「神はいる」と言われた場合に、それを疑ったとすれば、それは、「神はいる」以外の何かを信じていることである。

    だから、まず、疑うということは、信じることの反対であるとは思えない。人は、自分の身の回りで言われていることが、殆ど何も信じられないような時、自分は何も信じられないのだと思いがちであるが、しかし、実際、何も信じていないなどということはないと思う。

    私は、人が何も信じていないということは、却って、あり得ないと思う。ただ、信じる対象が、具体的であるか、そうでないかの違いである。

    ここに、疑うことと信じることの違いがあるように思う。つまり、何かを信じる時、人は、その何かを実際に思い浮かべることができるが、疑う時は、自分で、その信じている対象が、はっきりイメージできないという状態になる。これは言いたいことがあるのに、どうしても、それが上手く言えないという状態である。だから、疑うことは陰鬱で苦しく、信じることは逆に清々しい。

    私は、疑うということが重要であるとは思わないが、疑うということが何も信じていないということであると考えることには、ノーと言いたい。別に、疑ってばかりいたって、それは、人間として冷めているということとは限らない。単に、信じているものについて、はっきりと語れるか、そうでないかという違いである。

    しかし、この違いによって、結局は、信じることは明るくて、それをちゃんと伝えることができ、ストレスも少なくて済み、疑うことは陰鬱で暗く、何を言いたいのかが分からず、孤独で苦しいということになる。そして、それは実際、それぞれの性質として、経験的には正しいので、疑うよりは信じることの方が、何か良いことのように思われてくる。

    しかし、私には、信じるということと疑うということは、結局は、ストレス負荷が小さいか大きいかという違いしかないように思う。信じている=明るい、疑う=陰鬱という式は、思い込みの式であり、それは、信じることと疑うこととが、別のものであると考えていれば、段々、そうなってくるというものであり、別に、疑っているばかりで、苦しかったとしても、それで陰鬱にならなくてはいけないという訳でもないのである。自分は、単に、はっきりとは言えない何かを信じているだけであると、ある種、疑うということを、積極的な意味で捉えることも、またできる訳である。

  • 雪が降った

    寒い。今日は寒い。

    仕事の昼休憩、外出して、ラーメンを食べたが、微かに雪が舞っていた。それはすぐに止んでしまった。

    しかし、午後になると、今度はちゃんと降り出した。午後の仕事をしながら、窓の外を見ると、いつもの景色に、雪が降っていた。それは音もなく静かで、何故だか妙に感動してしまった。こんなに雪が降っているのを見るのは久しぶりだ。それと同時に、今日履いてきた靴は防水性が無いな、などと、つまらないことを考えもした。

    寒い。今日は寒い。昨日までも寒いと思っていたが、それは間違っていた。私は、寒いとはどういうことだったか思い出した。それは不思議と良い気分でもあった。

    家に着く頃には、雪は止んでいた。寒い、寒い。

  • 非体系哲学はどう読んだらいいのか

    今、カントの判断力批判を読んでいるところだ。上巻を読み終えて、下巻に入った。内容については、分かったような分からないような感じだ。

    カントの哲学は体系哲学。ニーチェの哲学は非体系哲学。私はニーチェをまだ読んだことがなく、ユーチューブなどで、ざっくりとその概要は知っているという状態だが、ふと、タイトルのような疑問が浮かんできた。つまり「非体系哲学はどう読んだらよいのだろうか」

    私がこのような疑問を持ったのは、体系哲学というのは、体系であるが故に、読めば読むほど、パズルのように穴が埋まってゆき、理解が深まってゆく感があるが、非体系哲学にはそのようなものがないだろうと思ったためである。ニーチェを幾ら読んでも、ニーチェが言わんとすることなど見えてはこないのだろう。それがまさに非体系哲学の狙いそのものでもあるからだ。しかし、だとすると、そのようなものを読む意味というのはあるのだろうか。

    これについて、ChatGPTに聞いてみた。すると、以下のような感じの回答。

    「非体系哲学というのは、その考えに当たることで、何らかの影響を受けることを目論むもの。体系哲学のように、何かが分かるというようなことは目指してはいない」

    この回答には納得できた。確かに、人の考え方に触れると言うのは、唯それだけで、何らかの影響は受けるものである。それが哲学的な思考であれば、なおのこと、大きな変化が自分に起きる可能性がある。それに期待して、ニーチェを読むと言うことは、全然、ありかもしれないと思った。

    しかし、それと同時に、そもそも私がカントを読む際に、既にニーチェ的な読み方もしていると言う事にも気付いた。つまり、私は体系哲学を非体系哲学のようにも扱っているということだ。私が、実際、カントを読んでいて面白いと思う所は、カントの構築する体系というよりかは、寧ろ、カントが結論まで思考を進めてゆくその途中にある、ふとした、おそらく客観的には些細だと思われるような、思考の断片だった。そのような何気ない切れ端の思考が、私の中の、今まで意識もしていなかったが、しかし、確かに私の中にあった些細な思考とぶつかって、そこから面白さが生まれてくるのだった。これは、確かに、自分の中にある、凝り固まったものの見方を、揺り動かすきっかけになっていると言えるだろう。

    非体系哲学が、内容そのものに意味があるのではなく、人の考え方に揺さぶりをかけるためにあるということは、別の言い方をすれば、思考というのは、つまりは気持ちなのだということである。例えば、「人生には意味などない」と誰かが言えば、これは虚無的な感情の表現かもしれない。だから、そのような哲学的なことを誰かに言われて、それに影響を受けることがもしあったとしたら、それは、その人の言ったことというよりかは、その人の気持ちに影響されたということになってくる。これは、考えるということと感じるということは、別ではないということである。

    今の時代が、ニーチェが考えたことの中にあるとすれば、今の哲学とは、哲学を通してしか表現できないような気持ちの交流にあるのかもしれない。