思考圏外ノート

趣味として考えたことの記録

カテゴリー: 哲学

  • 「頭がいい」という言葉に感じる違和感について

    最近、自己啓発的な動画や文章で
    「○○している人は頭がいい」
    「△△しない人は頭が悪い」
    といった言い回しをよく目にする。

    それを見ていて、私は次のような疑問を持つようになった。
    これは新しい形をした根性論なのではないか、と。

    かつての根性論は、「気合」「我慢」「努力」といった言葉を正面から使っていた。
    しかし、暴力や強制と結びついていたこともあり、次第に公然とは語りにくくなった。
    その結果、根性そのものが否定された、というよりも、別の言葉に言い換えられたのではないだろうか。

    その一つが「頭がいい」という言葉だと思う。

    「頭がいい」という言葉は非常に便利だ。
    だが同時に、あまりに雑でもある。
    生活習慣、感情の扱い方、仕事の進め方、価値観――
    本来は文脈ごとに分けて考えるべき事柄を、一語でまとめて評価してしまう。

    そして厄介なのは、その評価が説明ではなく、規範として使われる点だ。
    「こうすると合理的だ」という話が、
    いつの間にか「こうできる人は頭がいい」に変わる。
    これは論理のように見えて、実際には道徳の押し付けに近い。

    私は、そもそも根性というものが、論理の枠にきれいに当てはまるものだとは思っていない。
    根性とは、状況や感情に強く依存するもので、測定も一般化も難しい。
    それを「論理的に説明できるもの」として扱おうとするところに、無理が生じる。

    今の「頭がいい」論も同じ構造を持っているように見える。
    根性という言葉は使わないが、
    結局は「自分を律せ」「感情を抑えろ」「無駄をするな」という要求に行き着く。
    ただ、それを合理性や知性の言葉で包んでいるだけだ。

    もっとも、根性論そのものを全面的に否定したいわけではない。
    若者が社会に適応していく過程で、
    一定の規律や自己管理を内面化する装置として、
    根性論が機能してきた面は確かにある。

    ただ問題は、
    根性を論理で扱おうとしたときに生まれる精神的な摩擦だ。
    道徳は身につくかもしれないが、
    同時に混乱や苦痛も生まれる。
    それを個人の弱さとして処理してしまうと、話は先に進まない。

    むしろ必要なのは、
    「なぜ自分はその規範を引き受けているのか」
    「それは本当に自分にとって妥当なのか」
    と問い返す、もう一段上の視点ではないだろうか。

    「頭がいい」という言葉に違和感を覚える感覚は、
    単なる反発ではなく、
    そうした段階に差し掛かっているサインなのかもしれない。

    ※Chat GPTに記事を書いてと言ったら、良い感じになったので、そのまま載せてます。ただ、記事を書いて貰ったと言っても、これは、概ね、私の考えたことです。

  • 意味の意味

    人生に意味はないと、よく耳にする。反対に、意味はあるとも、よく聞く。愛とは希望とはどういう意味か、などの問いも沢山ある。しかし、私は時々、そもそも、意味ってどういう意味なのだろうと思ってしまう。

    この疑問に対して、言葉で答えるのは不可能だ。意味はどういう意味なのかと聞いた時点で、既に、意味という言葉を、何らかの意味で使っているからだ。意味の意味を、辞書で調べることはできても、そこに書いてあることに満足することは、決してできないだろう。

    だから、意味の意味については、言葉で説明することはできない。

    しかし、これを、感覚的に捉えることはできるような気はする。つまり、意味という言葉を使った時に、どんな感覚で、それを使っているかを、意識することはできる気がする。

    私は、「意味がない」と「意味がある」は、どこかでつながってくるものだと思う。例えば、人生に意味がないと思う時でも、その瞬間、人生に意味がないと思うことには意味があると思っていることに気付く。すると、結局は、人生には意味があるということになってしまう。

    このように、「意味がない」と「意味がある」は、どこかの点で、自然にひっくり返ってしまう。

    しかし、これは、「意味がない」と「意味がある」が同じということではなく、「意味がない」と思う時の意味と、「意味がある」と思う時の意味とが、別の意味、別の感覚で使われているということだと思う。

    「人生には意味がない」と思う時、大体、「どうせいつか死ぬのだから、何をしても無意味」などの理由がある。しかし、「人生に意味はある」と思う時、そう思う理由は「生きていれば良いこともあるに違いない」という感じなるように思う。

    ここでどういう違いがあるかと考えると、前者の理由は、何らかの根拠の説明であると思えるが、後者の理由は、根拠というよりは、何らかの希望の表明であるように思える。つまり、前者は、感情を排して、論理のみで考えた結果であり、後者は、論理を排して、感情を押し出した結果であるように思える。

    そのため「人生に意味がない」という時の意味は、論理的な、頭だけで考えるような意味で、「人生に意味がある」という時の意味は、感情的で、心で思うような意味ではないかと思える。

    すると、結局のところ、意味にもやはり、何らかの意味があり、それは言葉にはできないものの、感覚的には、頭だけで考えたような意味と、心で思ったような意味があるように思える。

    すると「人生に意味はない」と言っているのと、「人生に意味はある」と言っているのとは、言葉上では、あるなしで対立しているように見えるが、実際には、別のことを言っているように思えてくる。頭だけで考えれば、人生には意味はないが、心で思えば、人生には意味がある。ただ、それだけであり、どちらも正しいというだけのことになる。

    最近は、「生きてる意味がない」とか「働く意味が分からない」とか「人付きあいをしたってしょうがない」とか、そういう風になりがちだと思うが、それは、頭だけで、ものを考えると言うことが、昔より増えているからだと思う。心で何かを自由に思うということが難しくなっているのだ。それだけ、しがらみが多く、身動きの取れない不自由な世の中なのだと思う。

    私は、今できることと言ったら、それは、頭だけでものを考えるしかなくなっている現状を自覚することによって、心の自由を、絶えず、防衛し続けるしかないように思う。結局のところ、絶望しながら、平然と生きるより他ない。今の所、それ以外には考えられない。

  • 疑うことと信じることの違い

    何かを疑うということは、その何か以外の何かを信じることであると思う。つまり、例えば、「神はいる」と言われた場合に、それを疑ったとすれば、それは、「神はいる」以外の何かを信じていることである。

    だから、まず、疑うということは、信じることの反対であるとは思えない。人は、自分の身の回りで言われていることが、殆ど何も信じられないような時、自分は何も信じられないのだと思いがちであるが、しかし、実際、何も信じていないなどということはないと思う。

    私は、人が何も信じていないということは、却って、あり得ないと思う。ただ、信じる対象が、具体的であるか、そうでないかの違いである。

    ここに、疑うことと信じることの違いがあるように思う。つまり、何かを信じる時、人は、その何かを実際に思い浮かべることができるが、疑う時は、自分で、その信じている対象が、はっきりイメージできないという状態になる。これは言いたいことがあるのに、どうしても、それが上手く言えないという状態である。だから、疑うことは陰鬱で苦しく、信じることは逆に清々しい。

    私は、疑うということが重要であるとは思わないが、疑うということが何も信じていないということであると考えることには、ノーと言いたい。別に、疑ってばかりいたって、それは、人間として冷めているということとは限らない。単に、信じているものについて、はっきりと語れるか、そうでないかという違いである。

    しかし、この違いによって、結局は、信じることは明るくて、それをちゃんと伝えることができ、ストレスも少なくて済み、疑うことは陰鬱で暗く、何を言いたいのかが分からず、孤独で苦しいということになる。そして、それは実際、それぞれの性質として、経験的には正しいので、疑うよりは信じることの方が、何か良いことのように思われてくる。

    しかし、私には、信じるということと疑うということは、結局は、ストレス負荷が小さいか大きいかという違いしかないように思う。信じている=明るい、疑う=陰鬱という式は、思い込みの式であり、それは、信じることと疑うこととが、別のものであると考えていれば、段々、そうなってくるというものであり、別に、疑っているばかりで、苦しかったとしても、それで陰鬱にならなくてはいけないという訳でもないのである。自分は、単に、はっきりとは言えない何かを信じているだけであると、ある種、疑うということを、積極的な意味で捉えることも、またできる訳である。

  • 非体系哲学はどう読んだらいいのか

    今、カントの判断力批判を読んでいるところだ。上巻を読み終えて、下巻に入った。内容については、分かったような分からないような感じだ。

    カントの哲学は体系哲学。ニーチェの哲学は非体系哲学。私はニーチェをまだ読んだことがなく、ユーチューブなどで、ざっくりとその概要は知っているという状態だが、ふと、タイトルのような疑問が浮かんできた。つまり「非体系哲学はどう読んだらよいのだろうか」

    私がこのような疑問を持ったのは、体系哲学というのは、体系であるが故に、読めば読むほど、パズルのように穴が埋まってゆき、理解が深まってゆく感があるが、非体系哲学にはそのようなものがないだろうと思ったためである。ニーチェを幾ら読んでも、ニーチェが言わんとすることなど見えてはこないのだろう。それがまさに非体系哲学の狙いそのものでもあるからだ。しかし、だとすると、そのようなものを読む意味というのはあるのだろうか。

    これについて、ChatGPTに聞いてみた。すると、以下のような感じの回答。

    「非体系哲学というのは、その考えに当たることで、何らかの影響を受けることを目論むもの。体系哲学のように、何かが分かるというようなことは目指してはいない」

    この回答には納得できた。確かに、人の考え方に触れると言うのは、唯それだけで、何らかの影響は受けるものである。それが哲学的な思考であれば、なおのこと、大きな変化が自分に起きる可能性がある。それに期待して、ニーチェを読むと言うことは、全然、ありかもしれないと思った。

    しかし、それと同時に、そもそも私がカントを読む際に、既にニーチェ的な読み方もしていると言う事にも気付いた。つまり、私は体系哲学を非体系哲学のようにも扱っているということだ。私が、実際、カントを読んでいて面白いと思う所は、カントの構築する体系というよりかは、寧ろ、カントが結論まで思考を進めてゆくその途中にある、ふとした、おそらく客観的には些細だと思われるような、思考の断片だった。そのような何気ない切れ端の思考が、私の中の、今まで意識もしていなかったが、しかし、確かに私の中にあった些細な思考とぶつかって、そこから面白さが生まれてくるのだった。これは、確かに、自分の中にある、凝り固まったものの見方を、揺り動かすきっかけになっていると言えるだろう。

    非体系哲学が、内容そのものに意味があるのではなく、人の考え方に揺さぶりをかけるためにあるということは、別の言い方をすれば、思考というのは、つまりは気持ちなのだということである。例えば、「人生には意味などない」と誰かが言えば、これは虚無的な感情の表現かもしれない。だから、そのような哲学的なことを誰かに言われて、それに影響を受けることがもしあったとしたら、それは、その人の言ったことというよりかは、その人の気持ちに影響されたということになってくる。これは、考えるということと感じるということは、別ではないということである。

    今の時代が、ニーチェが考えたことの中にあるとすれば、今の哲学とは、哲学を通してしか表現できないような気持ちの交流にあるのかもしれない。