坂本慎太郎の五枚目アルバム「ヤッホー」が出た。YOUTUBEにアップされていた。私は、彼の昔のアルバムも聞いてはいるが、そんなに何度も聞いたりということはなかった。しかし、今回のアルバムは、今までよりも、自分の琴線に触れる感じがあって、二度三度と聞いている。
<インタビュー記事を読んで>
彼が、アルバム制作に関して、インタビューに答える記事を読んだ感じでは、彼の今回のアルバムに関して、私と同じように感じた人たちがいるらしいと分かった。現に、インタビュアーも、今回のアルバムは、今までのとは違って、坂本慎太郎の個人的な考えやストレートな感情が感じられる気がする、というようなことを言っていた。
しかし、坂本慎太郎自身は、それを半ば肯定し、半ば否定するといった様子だった。少なくとも、歌詞の作り方など、制作方法の面では、今までと違うところがあったようだが、彼自身の内面的な変化というのは、それは、人間も生きてゆくうちに変わるという意味では、勿論変わってるかもしれないが、しかし、本人曰く、積極的に何かを変えたという意識はないようだ。
そういうことを踏まえて、もう一度、「ヤッホー」というアルバムについて考えてみる。
<「ヤッホー」の歌詞の面>
私は、基本的に、歌のある音楽は、歌詞が自分の趣味でないと聞かない。メロディの良い歌は、確かに、聞いていて楽しいが、歌詞が頭と心にヒットしないと、自分の中で継続して、自分と一緒に生きてくれるものにならないのだ。そのような歌は、幾ら聞いても、結局は、自己啓発本のように空虚で、継続して聞く気にはならない。
なので、私は、坂本慎太郎の曲も、まずは歌詞から入っている。そして、ゆらゆら帝国の時よりも、ソロになってからの歌詞の方が好きだ。ゆらゆら帝国の時の歌詞は抽象的で、あまりストレートではないが、ソロになってからは、はっきりしたものになったという感じがする。だが、これは別に、ゆらゆら帝国の時の歌詞がつまらないということではない。単に、趣味ではないというだけで、ゆらゆら帝国の時の歌詞も、これはこれで、結構な詞であるという印象を持っている。
しかし、それはそれとして、今までのソロアルバムの中でも、今回の「ヤッホー」というアルバムは、これまで以上に、歌詞が良いなと感じるのである。
これは何でなのだろう、と私は考えてしまう。そして、そのもの思いは、結局、やはり、坂本慎太郎自身の心境の変化へと帰結してゆくのである。つまり、それは諦念の感覚であり、しかも、それは、挫折のような、単なる大きな諦念という訳ではなく、子供が大人になるのを受け入れたというような、革命的で、一度きりの、悲しい諦念である。ここに、フォークソングとか演歌とかの精神性が、ふと顔を覗かせるという感じがある。
そして、この諦念は、おそらく日本的なものと無縁ではない。実際、坂本慎太郎自身も、この諦念を単なる個人的なものと捉えていないように感じる。何故なら、彼は、前述のインタビューで、「自分も変わったかもしれないが、聞いてる側も変わったと思う」と答えている。ここには、彼自身、自分の心境の変化を認めつつ、しかし、それを、単なる、自分の人生だけに突発的に訪れたものとしてではなく、普遍的な、今の時代にタイムリーな不可避的なものとして、語っている節がある。
私には、彼が、日本的なものと、ふと和解して、それがふと音楽になって、それがふとアルバムになったというような物言いをしているように見える。そして、その言い方に納得できるのは、私も、この頃になって、そのような心境の変化を感じることが多いからだ。その点、確かに、聞いている側も変わっているのだ。
だから、私は、彼が言うように、この心境の変化は、今、日本に広がりつつある普遍的な心境の変化なのかもしれないとも思う。そして、彼のこの「ヤッホー」というアルバムは、その点で、私に深くヒットするものがある。
しかし、実際、日本的なものなどと言いはしたものの、このアルバムに、そんな歌詞が出てくる訳ではない。この解釈はあくまで私の推測であり、単に私自身の気持ちを彼に投影したに過ぎないと、そう言ってしまえば、唯それだけのことである。しかし、そうは思いつつも、このアルバムには、それを感じさせるものがあるような気がしてならない。だからこそ、このアルバムは凄いのではないかと思う訳である。
<坂本慎太郎の歌詞について>
また、私が思うに、坂本慎太郎のような人は、歌詞で、自分のしていることをさりげなく伝えるということをやっている。つまり、自己言及である。例えば、以前のアルバムで、「ディスコって」という曲があり、この曲には、「ディスコは君を侮辱しない」とか「ディスコは君に何も求めない」とか、そのような詞がある。このような詞は、彼自身の歌詞のスタンスの説明でもあるように思う。
実際、彼の詞は、聞いている人に何の強要もしていない。勿論、一つの世界観は提示しているが、聞く人がどう受け取るかは、全く指定しない。その感じは、一枚の絵を見る時の訳の分からなさと同じであり、映画で言えば、小津安二郎みたいである。
だから、この「ヤッホー」というアルバムでも、所々に、社会への怒りや、前述の、自分自身の心境の変化や、諦念、悲しみがちりばめられているが、それが、実際に、社会への批判や誰かへのメッセージとしてあるのかというと、そういう風には受け取れない。彼は、唯、今の社会状況も、自分の内面も、全て、流れてゆくものの一瞬間として、捕まえたかったから、捕まえただけという風に見える。実際、このアルバムには「時間は動いている、オッケー」という歌詞も登場する。そういうところが、やっぱり日本的であり、演歌やフォークの精神と重なってくる。
<「ヤッホー」の音楽の面>
そして、彼の自己言及的なところは、彼の音楽と歌詞とを、しっかりとつなげる役割も果たしているとも思う。
今回のアルバムは、音楽の面でも、結構聞きやすい。私は、前述のとおり、歌詞の方が気になるタイプなので、音楽の方は余り自信がない。しかし、そんな私でも、今回のアルバムは、音楽的にはシンプルで、心地よく、そういう意味では、万人受けしそうな感じですらあると思う。
そして、このことについても、「時計が動き出した」での「余計なことしなくて、オッケー」という歌詞によって、説明がされているように感じる。この歌詞から、聞いている人は、彼はもう、余計なことはしなくてもいいという安らぎを得ているんだと感じる。また、彼はもう、このようにシンプルな音楽でも満足であり、また、ここまでシンプルにしても尚、聞きごたえのあるものが作れるという、静かな自信の境地も持っているのだと分かるのである。
そして、それはまた、別の角度から見ると、諦めの境地であり、悲哀の境地でもある。その悲哀が、今度は「時の向こうで」という別の歌で歌われ、その苦しみが「なぜわざわざ」になり、これが、社会への観察眼と結びつけば「おじいさんへ」や「麻痺」になったのではないかと思う。
<終わりに>
よくよく何度も歌詞を聞いてみれば、彼の詞を貫くものは、昔から変わっていない。このような諦め、苦しみ、社会への疑問などなどは、ソロになってからは、殆ど、何度も同じように繰り返されている。彼が「自分ではそれ程、変わったつもりがない」というのも、やはり本当なのだろう。そして、これからもまた、同じようなことが繰り返されつつ、しかし、それでいて、何か発展や変化があると感じられるものが、できあがるのかもしれない。
しかし、唯、私には、今回のアルバムは、もしかしたら、結構、特別なものかもしれないと思える。このアルバムのように、悲哀や諦念や苦渋が、歌詞と音楽で、しかも、余り奇に走らないシンプルなスタイルで、見事に一つのまとまりを見せてくれるものは、中々ないと思う。つまり、これは一個人の境地が垣間見える一瞬の、花火のように特別な芸術であり、そして、それ故に、私には、今回のアルバムは、偶然の要素がだいぶ良い形で加わったように感じる。だから、もうこのようなアルバムはできないだろうと思う一方で、このアルバムには今までよりも、一段と深い魅力を覚えるのである。